梅の歴史
梅は、中国原産の花木で、2000年前に書かれた中国最古の薬物学書『神農本草経』には、すでに梅の効用が説かれていました。
梅が日本に伝来したのは、3世紀の終わり頃とされています。百済(くだら)の帰化人・王仁(わに)がもたらしたとする説や、欽明天皇(531年即位)の大和時代に、中国・呉の高僧がもたらしたという説があります。
烏梅は「うめ」の語源ともいわれており、中国語では「むえい」や「めい」と発音していたものが、日本人には「うめ」と聞こえ、「梅」のことも「うめ」と呼ぶようになったそうです。
日本の文献に「梅」という文字が最初に現れるのは、日本最初の漢詩集といわれる『懐風藻(かいふうそう)』(751年)におさめられている、葛野王(かどののおおきみ)の「春日翫鶯梅」と題する五言詩です。
また、日本最古の歌集『万葉集』にも、梅を題材とした和歌が数多くあります。
梅干しが初めて文献に登場するのは平安時代(794年~1185年)で、医師の丹羽康頼(たんばのやすのり)が記した日本最初の医学書「医心方(いしんぽう・984年)」に「梅は三毒を断つ」という記述があります。
三毒とは水毒(体内の水分の汚れ)、食毒(食生活による体内の乱れ)、血毒(血液の汚れ)のことで、梅を食べることでこれらを解消する効果があるとされました。
「医心方」に記載されている「梅」は、梅を塩漬けにしただけの「梅干し」のことだといわれています。
鎌倉時代(1185年~1333年)末期の日本最古の料理書「世俗立要集(せぞくりつようしゅう)」には「梅干ハ僧家ノ肴也」という記述があります。
これは「梅干しはお坊さんの酒のさかなである」という意味で、鎌倉時代にはお坊さんたちが梅干しを食べていたと考えられています。
戦国時代(1467年~1590年)になると、梅干しは食中毒や伝染病の予防、傷の消毒、落ち着きを取り戻し、精神を安定させる薬として重宝されるようになりました。
梅干しは作りやすくて保存性が高いうえ持ち運びもしやすかったので、武士が戦に携帯するようになり、梅の木が日本各地に広がったきっかけになったといわれています。
江戸時代(1603年~1868年)になると、庶民の間でも梅干しが食べられるようになりました。江戸中期には赤シソで漬ける「しそ梅」や砂糖漬けにした「甘露梅」などいろいろな漬け方が登場しました。
江戸時代末から明治時代(1868年~1912年)には、感染症の「コレラ」が数年おきに流行を繰り返し、大勢の人が命を落としました。
この時、梅干しに含まれる有機酸には抗菌作用があり、コレラ菌をやっつける効果があることがわかり、コレラの予防や治療に役立ったそうです。
明治から大正(1912年~1926年)にかけて、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦などが起こり、梅干しは軍用食として需要が増加し、全国各地で梅の栽培が盛んになりました。
昭和、平成、令和と時代は移り変わりましたが、いつの時代も梅干しは日本人にとって身近な食べ物として親しまれてきました。
現在は塩分控えめの梅干しや、すっぱさが苦手という人向けにはちみつを使った甘い梅干しなど、いろいろな梅干しが販売されています。
このように中国から日本に伝来した梅は、珍しさもあり多くの人たちに愛されました。
しかし、梅が重宝されたのは、その花の美しさだけではありません。
古代から梅の実にさまざまな効能のあることが知られており、そのため人々から広く利用されたのです。
時代別の梅の利用
奈良時代~鎌倉時代
梅干しや大福茶などの保存食や食薬品として用いられるようになる。
申年の梅干しは縁起物として珍重されるようになる。
僧侶や武士が酒や兵糧食として利用する
戦国時代
梅干しや兵糧丸などが兵糧食として重宝される。梅干しは疫病予防や傷口洗浄などにも使われる
江戸時代
庶民の食卓にも梅干しが登場する。紫蘇漬けや甘露梅など多くの梅の漬け方が生まれる。
本草学において梅の花・実・葉・枝・根すべてに効用があると述べられる。現在の梅肉エキスの原型が考案される
明治時代~昭和・平成時代
西洋化や戦争などで一時期衰退するが、戦後復興発展とともに再評価される。
多くの梅を使った食品や健康法が登場する。財団法人梅研究会が設立される
令和時代
新元号「令和」の由来となったのは「万葉集」にある梅の歌の序文から。
明るく期待に満ちた日本でありたいという願いが込められている
菅原道真と梅
菅原道真は、平安時代の貴族・学者・歌人で、天神様として祀られています。
菅原道真は、左大臣・藤原時平の讒言によって、延喜元年(901年)に大宰府に左遷されました。
菅原道真は、大宰府での生活を送りながらも、京都への郷愁や不遇を和歌に詠みました。
菅原道真は、延喜3年(903年)に大宰府で亡くなりましたが、その後、朝廷や京都で災難が相次いだため、怨霊として恐れられました。
菅原道真は、その後、学問や芸術の神様として崇敬されるようになり、全国各地に天満宮が建立されました。
菅原道真と梅の関係
菅原道真は、梅の花や実を愛でており、自ら梅を栽培したり、梅に関する和歌を詠んだりしていました。
菅原道真が大宰府に左遷される際に、自邸の梅の木に「東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」という歌を詠んだという伝説があります。
この歌に応えて、菅原道真を慕った梅の木が一夜にして大宰府まで飛んできたという伝説があります。これを飛梅伝説といいます。
飛梅伝説は、太宰府天満宮だけでなく、北野天満宮や防府天満宮など他の天満宮でも語られています。
菅原道真は、天神様として祀られるようになってからも、梅の花や枝を持った姿で描かれることが多くなりました。
飛梅伝説の起源
文献上の初出
飛梅伝説は、菅原道真が大宰府に左遷される際に、自邸の梅の木に「東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」という歌を詠んだという話から始まります。
この歌は、寛弘2-3年(1005-1006年)頃に編纂された『拾遺和歌集』巻第十六雑春に収録されています。
この歌に応えて、菅原道真を慕った梅の木が一夜にして大宰府まで飛んできたという話は、承久元年(1219年)に制作された『北野天神縁起絵巻〈承久本〉』詞書中に初めて見られます。
この絵巻は、菅原道真の生涯や怨霊としての祟り、天神信仰の発展などを描いたもので、飛梅伝説はその一部です。
伝説の背景
飛梅伝説は、菅原道真の威力や学問の神としての姿を印象づけるかっこうの材料となったと考えられます。
菅原道真は、大宰府で亡くなった後も、朝廷や京都で災難が相次いだため、怨霊や祟り神として恐れられました。
しかし、その後、学問や芸術の神として崇敬されるようになり、頭巾を被って道教の衣服をまとい、手に梅の枝を持った姿で描かれるようになりました。
飛梅伝説は、このような天神信仰の変化とともに発展したものとみられます。
また、飛梅伝説は、日本古来の飛び神信仰とも関係があるといわれます。
飛び神信仰とは、神霊が空中を自由に飛び回り、人々の求めに応じて降臨するという信仰です。
飛び神明という神が各地に飛来してその地の守護神となったという伝えがあります。
飛梅伝説は、このような飛び神信仰と菅原道真の威光とが結び付いた伝説なのであろうと考えられます。
戦国武将と梅
梅は、戦国時代には保存食や薬として重要な役割を果たしました。梅干しは、傷の消毒や食中毒や伝染病の予防、疲労回復などに効果があるとされ、兵糧食としても使われました。
また、梅の木は戦略物資としても重視され、多くの武将が梅の植林を奨励しました。
戦国武将と梅のエピソード
上杉謙信
上杉謙信は、酒肴に梅干しをよく食べていたと言われています。また、上杉家の家紋は「五七桐」ですが、これは謙信が好んだ梅の花の形に由来するという説もあります。
武田信玄
武田信玄は、梅干しを兵糧食として重用しました。信玄が亡くなった際には、遺言で家臣に「梅干しを持っていけ」と言ったという逸話があります。
織田信長
織田信長は、梅干しを好んで食べていたとされます。信長が本能寺で自害した際には、最後の一口に梅干しを食べたという伝説もあります。
北条早雲
北条早雲は、毎食のように梅干しを食べていたという。早雲は家臣らの家の庭に梅の木を植えさせたことで、現在の小田原の梅林の起源となりました。
穴山信君
穴山信君は、武田氏の一門でありながら穴山氏を名乗りましたが、これは穴山氏が代々「梅」を家紋としていたことに由来します。信君は武田氏滅亡後も穴山氏を存続させました
武田信玄と梅干し
武田信玄は、戦国時代の甲斐国の戦国大名で、駿河国や信濃国などにも勢力を広げました。
信玄は梅干しを兵糧食として重用し、自らも酒肴によく食べていました。
梅干しは、傷の消毒や食中毒や伝染病の予防、疲労回復などに効果があるとされ、武田軍の強さの秘訣の一つでした。
武田信玄と梅干しのエピソード
武田信玄は、娘を北条氏政に嫁がせましたが、その娘の名前は黄梅院といいました。
黄梅院は「黄色い梅」を意味し、信玄が梅干しを愛したことから名付けられたという説もあります。
武田信玄は、梅干しを兵糧食として重用しました。信玄が亡くなった際には、遺言で家臣に「梅干しを持っていけ」と言ったという逸話があります。
これは、敵地で戦う家臣たちの健康を気遣った言葉だったと考えられます。
梅干しの栄養価
梅干しは、梅の実を塩漬けにして天日干ししたもので、日本の伝統的な保存食です。
梅干しには、梅自体に含まれるクエン酸や有機酸などによって、抗菌作用や疲労回復作用などがあります。
また、ミネラルやポリフェノールなども豊富に含まれています。
梅干しのカロリー・糖質量・塩分量
梅干しは、塩漬けの梅干しと調味漬けの梅干しに分けられます。
塩漬けの梅干しは、100gあたり30kcal、糖質1.05g、塩分72gです。
調味漬けの梅干しは、100gあたり96kcal、糖質3.2g、塩分30gです。
一般的に市販されている梅干しは調味漬けのものが多く、カロリーや糖質量が高くなっています。
一方で塩分量は調味漬けの方が低くなっていますが、それでも1日に必要な塩分量(6g)を超えてしまう可能性があります。
梅干しを食べるときは、塩分やカロリーに注意して適量を摂るようにしましょう。
梅干しの主な栄養素と効果
クエン酸
クエン酸はさわやかな酸味のある成分で、体内のエネルギー産生に欠かせない有機酸のひとつです。
クエン酸は唾液や胃液の分泌量を増やし、食欲増進に繋がります。
また、鉄やカルシウムなどミネラルの吸収率を高めます。
クエン酸は疲労物質である乳酸を分解する働きもあり、疲労回復や筋肉痛の軽減に役立ちます。
ポリフェノール
ポリフェノールとは植物の持つ色素成分や苦み成分で、抗酸化力があります。
梅干しに含まれるポリフェノールの一種「梅リグナン」は、酸化反応を抑制する作用があるといわれています。
酸化反応は老化や生活習慣病の原因となるため、ポリフェノールはその予防に役立ちます。
カリウム
カリウムはナトリウムと共に細胞の浸透圧を維持している栄養素です。
カリウムは腎臓でのナトリウム再吸収を抑制し、尿中への排出を促進します。
そのほか、心臓や筋肉機能の調節などさまざまな作用があります。
塩漬け梅干し1個(10g)あたり、44mgのカリウムが含まれています。
カルシウム
カルシウムは骨や歯の主成分であり、人体にもっとも多く存在するミネラルです。
カルシウムは骨形成にかかわるほか、細胞の分裂、神経の働きや筋肉運動を助けるなど生命の維持活動に関与しています。
塩漬け梅干し1個(10g)あたり、7mgのカルシウムが含まれています。
鉄
鉄は人体の中で赤血球、また貯蔵鉄として肝臓や骨髄、筋肉中などに存在します。
鉄は全身に酸素を運ぶ重要な働きをします。
梅はりんごやみかんなどに比べて鉄分が豊富です。
梅干しの鉄分は、肉や魚などの動物性食物に含まれる鉄分より吸収されにくいので、動物性たんぱく質と組み合わせた食事をすると、吸収率がアップします。
塩漬け梅干し1個(10g)あたり、0.1mgの鉄が含まれています。
江戸時代の梅の品種
江戸時代には、梅には500種以上の品種があるといわれています。これらの品種は、野梅系、緋梅系、豊後系に大きく3系統に分類できます。
野梅系
野梅系は、野梅から変化した原種に近い梅で、中国から渡来した梅の子孫と言われています。
枝は細く、花も葉も比較的小さいです²。
花や葉も小ぶりですが、とてもよい香りがします。
野梅系には、野梅性、難波性、紅筆性、青軸性などの性質があります²。
例えば、難波性の「難波紅」は、江戸時代初期に大阪で栽培された品種で、花色が淡紅色で香りが高く、花期が長いことで知られています。
緋梅系
緋梅系は、野梅系から変化したもので、枝や幹の内部が紅く、花は紅色・緋色のものがほとんどです。
葉は小さく、性質は野梅性に近いです。
庭木や盆栽に使われるものが多いです。
緋梅系には、紅梅性、緋梅性、唐梅性などの性質があります。
例えば、緋梅性の「緋寒紅」は、江戸時代中期に江戸で栽培された品種で、花色が深紅色で光沢があり、寒さに強く早咲きなことで知られています。
豊後系
豊後系は、梅と杏との雑種で、葉は大きく育ちの良いものが多いです。
アンズに近く、花は桃色のものが多いです。
豊後系には、豊後性、杏性などの性質があります。
例えば、豊後性の「豊後」は、江戸時代中期に大分県で栽培された品種で、果実が大きく甘酸っぱくて美味しいことで知られています。
紀州産南高梅
南高梅は、紀州の最高級梅として扱われる梅の中でもトップクラスの品種です。皮は薄く種は小さく、果肉は柔らかく、香りはフルーティーといった特徴があります。また、梅が熟して自然に地に落ちるのを待ってから収穫するという収穫の特徴もあります。
南高梅の栄養価
南高梅は、ビタミンCやクエン酸が豊富で、疲労回復や美肌効果が期待できます。
また、食物繊維も多く含まれており、腸内環境を整える効果もあるとされています。
ただし、南高梅は塩分が多いため、過剰摂取には注意が必要です。
南高梅を使った商品
南高梅を使った加工品としては、梅干しや梅酒などがあります。
紀州梅の里なかたでは、梅干しや梅酒などの加工品をはじめ、南高梅の果汁を使ったジュースや、南高梅の果肉を使ったジャムなども販売しています。